高浜利也展
TAKAHAMA Toshiya
2018.12.3(mon) - 12.22(sat) ギャラリーなつか 日曜休廊
≪つくる、くちる、つくる、こと≫
落石計画(おちいしけいかく)でこの10年余り毎夏、銅版画を刷った石膏キューブを旧落石無線送信局の建物の中に積み上げている。当然、その銅版画は額装などされておらず、落石の過酷な気象条件に晒され、積み上げた途端にインクの劣化が進み朽ち始めていく。角が欠け、インクがはがれ、つらら状に鍾乳洞化したものもある。今年も8月に落石に行き、朽ち始めた銅版画の上にさらに、新しい銅版画を積み上げてきた。もちろん、来年もまた行くつもりだ。つくる、くちる、つくる、の繰り返しをずっと続けている。
個人的にはクライアントから依頼された銅版の茶室をつくるという最初のきっかけからすっかり逸脱し、すでに違うものを見はじめているような気がする。自分はいったい、落石で何をやっているのだろうか。ようやく去年あたりから、もしかしたらそういうことかもしれない、となんとなくわかりかけた感覚がある。強酸性の腐食液に銅版を浸し、短時間で強制的に腐らせながら絵をつくっていく銅版画の制作プロセス同様、この地では塩分を含んだ深い霧に包まれながらすべてのものが等しく、加速度的に朽ちてゆく。そのスピードは日常の暮らしの中に存在する腐食や風化をはるかに上回る速さだ。この異常な風化の速度は銅版画の成り立ちそのものであることにようやく気づいた。落石という場所を汲み取り、その場所性を作品化するのではなく、石膏キューブの銅版画そのものを、落石という場所に晒すことで朽ちさせるためにそこに行く、という感覚。
銅版画のモチーフとなる家は当初は茶室のプランドローイングのはずであったが、やはり今では大きく逸れてきた。若いころ、施工を生業(なりわい)としてきた建築としての家、そして自分自身の存在や居場所のメタファーとしての家であり、向き合うべき銅版画の在り方そのものの象徴でもある。家が朽ちる、銅版画が朽ちる、自分が朽ちる。そしてまた、つくる、積み上げる。落石通いで見えてきた行いの繰り返しやつながり、あるいはその全体像のようなものをひっくるめて銅版画にしたいと思った。自分がこれまで銅版画でつくってきたかたちや色、空間をもう一度解き放ち、つなぎ直し、さらに積み上げ、あるいは版を重ねながら、つくること、生きることの連鎖そのものを取り込みつつ、版画工房で紙の銅版画をしばらく一所懸命つくりたい。
高浜利也